教科書で出てくる吉田松陰といえば安政の大獄で捕まったということしかでてきません。しかし、吉田松陰は本当はこれだけではありません。とってもとっても素晴らしい人なのです。それに安政の大獄で捕まった人もこの二人だけではありません。ここでは吉田松陰や、安政の大獄のことを教科書より若干詳しく説明します。
黒船に乗ろうとする松陰
吉田松陰はまだ若い頃、親友金子重之助とともに黒船に乗ろうとします。黒船の大砲を見た松陰は日本の軍事力では負けてしまう。今まで習ってきた武力では全く効かない。外国の武力を学ばなくてはいけない。そのために、黒船に乗せてもらい、アメリカに行って学ぼう。そう松陰は考えました。
まず、岸から100メートルほど先の船へ向かいました。岸にあったボートは若干壊れていて、褌などで補強して向かいました。船に乗ったことなどない松陰と重之助は悪戦苦闘しやっとのことで黒船に到着しました。そこで松陰は「あっちの船に行け。」と言われました。なんでもあっちに通訳がいるとのことです。松陰らは言われた船に行きました。そこではちゃんと通訳がいました。しかし、いくら言っても当時は外国へ行くことは許されていませんでした。だから、断られました。ペリーらの黒船乗組員は幕府に黙っていこうとした二人を牢獄へ連れて行き、二人は逮捕されました。本当なら国禁を犯したので島流しぐらいの罪は当然でした。しかし、志あるものとして時の老中から故郷で蟄居してろという命がおりました。だが、二人の身分は違ったので違う牢獄に入りました。
高須久子との出会いと親友の死去
松陰は武士の身分だったので武士階級の牢獄「野山獄」に入りました。重之助は足軽だったので野山獄より管理状態が悪い「岩倉獄」に入りました。松陰は長州藩にはなぜ牢が二つあるのかがきになっていました。そして不思議に思っていました。同じ罪をおかしたのに違う牢に入らねばならない。そういう身分差別が気にかかっていました。そこで松陰とあったのが高須久子だったのです。高須久子が牢獄に入っていたのは違った身分の人でも同じように接していたからのこと。ときには武士の家には入ることが出来ない人までも入れていたそうです。重之助は持病を患っており、衛生状態の悪い岩倉獄で病死しました。松陰は何度も何度も岩倉獄の管理を良くして欲しいと言っていましたが、それは叶わず牢獄の中で最大の親友を無くしてしまいました。野山獄には高須久子のほかに大深虎之冗、富永有隣、平川梅太郎、吉村善作がいました。彼らは俳諧が上手かったり字が上手かったりでお互いそれらを教えあいました。また、俳句会も行われました。
松陰は高須久子の思想にとらわれます。こんな時代の中、身分をわけへだてなく接する久子の考えは後の松陰に影響を与えました。
やがて、松陰は野山獄をでて自宅で謹慎していろという命をうけました。
松下村塾
獄を出た松陰の元には沢山の弟子が来ました。彼らは松陰が呼んだわけでもなく自然にやってきました。そして三代目となる松下村塾を開きました。松下村塾では講義のほかに今でいうゼミナールや討論会といったことも行われました。松下村塾出身の人には伊藤博文や高杉晋作など明治維新で活躍する人が現れました。松下村塾での松陰の合言葉は「耳をとばして目を長くする。多くの情報を入手し、それに基づいて行動しなくてはならない。」です。その頃の松陰の冷静さが伺われるような気がします。
松陰は獄中であった高須久子の考えを思い、弟子達に教えました。しかしそんな松陰は捕まりました。安政の大獄です。 また、某予備校で松下村塾をだして説明する所もあらわれています。
以下の文章は某予備校の公開説明会の資料です。

安政の大獄
安政の大獄は大老井伊直弼が行ったことです。彦根藩から大老へと呼ばれたのです。直弼が弾圧した人には徳川一門の水戸藩主、徳川斉昭も含まれていました。斉昭は弘道館の設立、兵制改革などの藩政改革を行いましたが大老井伊直弼と対立し、永蟄居にされます。他にも橋本左内などが死罪となっています。また、徳川斉昭を蟄居したことにより、水戸の人々は直弼を殺す計画を立てます。水戸藩士だと斉昭にも被害が及ぶので藩を脱退しました。そしておこったのが桜田門外の変だったのです。