教科書で出てくる大塩平八郎といえば大塩の乱をおこしたということしかでてきません。しかし、大塩平八郎は本当はこれだけではありません。とってもとっても素晴らしい人なのです。ここでは大塩平八郎や、大塩の乱のことを教科書より若干詳しく説明します。
大坂奉行所の役人
大塩平八郎は代々大塩家の役職「与力」の位についていました。大塩は正義感のある人で役人の不正行為を許しておけませんでした。
与力で大坂奉行所の弓削新右衛門は与力の役職でありながら、犯罪組織をつくって悪事をはたらいていました。盗みをしたり、脅したりしていました。大塩はそのことを知っていたので、弓削を捕まえようとしました。しかし、大塩は弓削の悪事を知っていながら、大阪西町奉行の内藤に寵愛を得ていた為に手を出すことができませんでした。そして西町奉行の内藤が転勤する時期と同時に、東町奉行の高井の命令によって捜査が開始されました。そして弓削の犯罪組織の組員を次々に捕らえ、もう逃げられないと思った弓削は自害しました。
無尽
無尽は大坂城代や京都所司代など大きな役職で行われていました。
無尽とは一定のお金を払い、抽選した人が皆から出されたお金もらい、抽選した人でもまたお金をはらい、結果的には全員が同じ金額をもらう金融の一方法です。(左図参考)
この無尽を利用した悪事が京都所司代や大坂城代などで行われていました。
その悪事の内容は簡潔に述べると結果的に無尽の企画者が余分にお金をもらうということである。これを大塩は調べさせました。無尽の不正の内容は外からみ他だけでは分からなく、無尽の専門家に調べさせました。

大塩平八郎の乱
そのころ、天保の飢饉(ききん)があり、百姓やその他もろもろの人々は大坂に米をもらいに来ました。しかし、奉行所は米を買いに来る人々を牢獄へ入れたので百姓一揆などが多発しそうでした。それを抑えようと武器弾薬を買ったりして集めました。(私の学校の先生は盗んだと教えました。)やがて大塩は与力の座を子どもに譲りました。大塩は奉行所に民衆に米をやるように言い寄りましたが、元与力の大塩の言うことは誰も聞いてくれませんでした。
そして1837年、モリソン号事件がおこった年、大塩は決めました。「武器弾薬を使うのは今しかない。」大塩は当初の目的を変え、反乱をおこしました。大塩の乱です。(本人は反乱と言っていない。)
大塩の乱はわずか半日でしずめられました。反乱を知っていた一人が奉行所に密告したのです。彼は、「奉行所に内緒で反乱をおこすと一族に迷惑がかかる。」そう思ったそうです。

大塩の言葉
最後に大塩の言葉を載せておきます。

自分自身の本性を欺いて、勝手に自己満足していても、いずれひとさまにみぬ かれてしまう。 正義と私利、まこととうそいつわりの境目をごまかしてすごしてはならない。 口先だけで善を説くことなく、善を実践しなければならないのだ