教科書で出てくる菅原道真といえば遣唐使を廃止し、藤原氏のために大宰府におくられたことしかでてきません。菅原道真は死後、学問の神様として崇められました。ここでは菅原道真や、遣唐使廃止のことを教科書より若干詳しく説明します。
菅原氏と讃岐守
菅原氏は天皇に学者として仕える一族でした。道真も勉強し、友とは口をきかず、家族とも話しはせず、熱心に勉強に励みました。当然道真は学者として仕えると思っていました。
そんな道真に政治家としての第一歩の人生を歩まねばならなときが訪れました。国司として讃岐へ行けといわれるのです。学者として仕えると思っていたので道真は驚きました。しかし、命令とあっては行かぬことは許されません。
讃岐は土地も枯れ、他国へいくものが急増していました。しかし、中央政府はそのことを知りませんでした。 「なんとかせねばならない。」道真はそう思いました。道真の政治により、地方に渡っていた人は帰ってき、また、もともと讃岐にいなかった人も讃岐で暮らすようになりました。

国家の政治
そのころは、藤原氏の摂関政治により、藤原氏が高い位を独占していました。藤原氏の娘を天皇の妃にしていたからです。

天皇の妃にして子どもを天皇にする→おだてる→政治がわからない→祖父に政治を頼む(摂政)→大人になっても政治をしてないので政治がわからない→祖父に政治をやってもらう(関白)→摂関政治

これが摂関政治です。藤原氏の全盛期は言うまでも無く藤原道長・頼道親子です。ちなみに頼道は平等院鳳凰堂を建てさせました。そんななか、讃岐から任期を終えて帰ってきた菅原道真がいました。地方での政治の功績をかって、道真は宇多天皇から役職をもらいました。中央政界へ踊り出たのです。いくつかの役職をやってやがて右大臣の位につきました。そこに道真に手紙が来たのです。「天下を思うままにし右大臣の位までとった。もう満足ではないか。右大臣をおりたまえ。」というような内容だったと記憶しています。
当然藤原氏は警戒するわけです。菅原道真は死後、学問の神様として崇められたことで分かりますが、頭がよかったわけです。いずれ、藤原氏に変わって政治を行うことを懼れていました。現に、宇多天皇から政治の重要なポストに就かされたわけですので天皇からも気に入られています。

政治改革
菅原道真はちゃくちゃくと日本の政治を改革していきます。民衆の意見を集めたり(難民苦使の派遣)、年貢のとりたて屋をなくしたりしました。
脅しで年貢をとるのは良くないと考えたわけです。そうした改革も藤原氏が菅原道真に対して危機感を感じたものの一つと考えられます。有名なのは894年に行った遣唐使廃止でした。一説によると藤原氏に「遣唐使として唐に行け」と言われた。当時は航海技術もそれほどよくなく、生きて帰って来れるかわからない。さらには朝鮮半島の政治も乱れていて海賊も出現していてさらに危険である。当然行きたくない。自分は右大臣だし、遣唐使を廃止しよう。そう道真は考えたのだと思います。しかし、ただたんに行きたくないから「遣唐使を廃止しよう」なんてことを認めるわけがありません。
ちょうど唐も内戦が続き、衰えはじめていました。述べたように海賊も出現していて、航海が危険である。この2点を遣唐使廃止理由にしたのです。
大宰府へ追いやられる
宇多天皇が譲位し、子どもの醍醐天皇に変わりました。宇多上皇は醍醐天皇に「政治のことは道真とよく相談して行うように」と言われていました。何事も、道真を通して行えといわれたのです。それを知った貴族達は政治を一人でやるなら勝手にやっとれ!といわんばかりに、会議に貴族がだれも出席しないということもおこりました。典型的ないじめのように思えます。(笑)
道真の改革は着実に進んでいきました。「これではヤバイ」と左大臣藤原時平は考えました。それでひそかに貴族達で会議を開きました。そこには菅原道真の姿はありませんでした。そこで決められたのが道真の大宰権帥に左遷することです。道真は「すでに改革を行うことは止めることの出来ないことである。ここで私が大宰府に行っても改革は行われるであろう。」と考えたので素直に大宰府に行きました。そのときにはもう宇多上皇は上皇でなく法王となって政治から離れていたので、必死に道真の大宰府行きをやめてくれと頼んだが、政治から身を引いた法王。会議すら参加は出来ませんでした。その後時平は最初の荘園整理令を発し、「三代実録」「延喜式」撰修に参画しました。しかしこれらは道真が考えたことそのものだったのです。これにより藤原氏の力はさらに増しました。
大宰府に行ってからは罪人という扱いで会議にも出席することは許されませんでした。死後、怒りの神様、雷神となって時平を苦しめたといいます。朝廷は菅公の怒りを鎮めるため、元の位に戻し各地に流されていた子供達を都に戻しました。 道真には息子10人、娘3人いて長男は土佐に流されていました。そうすると、道真の怒り「雷神」は治まったといわれています。