吉田松陰
 私が吉田松陰に興味を持ち始めたのは今年
の一月だ。一月の四週目のNHK「その
時歴史が動いた」で吉田松陰のことがとりあ
げられた。「その時歴史が動いた」では先週
に大塩平八郎、先々週に愛新覚羅溥儀がとり
あげられていた。
歴史の教科書で吉田松陰はたった一頁しか
でていない。しかも処罰されたとして載って
いるのである。一見吉田松陰が悪者に見えて
しまう。確かに吉田松陰は松浦松洞に「水野
土佐守を斬りたまえ」と言ったことはあるが
実際に松洞は殺していない。はっきり言って
吉田松陰がいなければ今の日本はないといっ
ても過言ではない。例えば松陰の開いた松下
村塾の門下生に明治時代の内閣総理大臣にな
った人は二人いる。明治時代の内閣総理大臣
を順に言っていくと初代伊藤博文、二代黒田
清隆、三代山縣有朋、四代松方正義、五代伊
藤博文、六代松方正義、七大伊藤博文、八代
大隈重信、九代山縣有朋、十代伊藤博文、十
一代桂太郎、十二代西園寺公望、十三代桂太
郎、十四代西園寺公望となっている。この中
で松下村塾門下生は山縣有朋と伊藤博文の二
人で二人合わせて計六回も総理大臣の職に
就いている。実に明治時代の内閣総理大臣の
半分弱も松下村塾門下生がしめている。
 松陰は安静の大獄で処罰されているがその
中には橋本佐内という者もいる。彼と松陰の
共通点、それは師が佐久間象山であることで
ある。(松陰の場合は師は他にも沢山いる)佐
久間象山を師としている者は他に勝海舟など
がいて坂本龍馬とも関係が深い。
 そんな松陰の幼いころ教育者は叔父の玉
木文之進である。玉木文之進は松下村塾初代
主宰で、彼の教育方針は厳しく松陰がハエを
はらっただけでもどなりつけたと言う。
 若いころに松陰は竹馬の友金子重之助と共
に密航しようとした。ペリーらの船に乗せて
もらい外国の兵学を学ぼうとしたのである。
はじめはミシシッピに行った。そこにはペリ
ーはいなくサスケハナに行った。そこには通
訳が二人居たという。しかしペリーは日本と
の交渉に支障を来すと考えそれを断った。
 このような吉田松陰のことが書かれている
のが童門冬二さんが著した「吉田松陰」であ
る。この本は松陰のことが書かれているだけ
でなく、松陰を知るにあたって彼から何を学
ぶかというのを主にかいてある。これが社会
という教科を学ぶのに重要なのである。いや
社会を学ぶ理由がこれなのだと思う。「日本
はその時こんな風にした。しかしこうすれば
良かったのではないか」とか「現在でもこん
なことがある。今はこうすべきである」とい
ったようなこと。これこそが松陰が松下村塾
で教えたことだったのである。明治時代に板
垣退助が自由民権運動をおこした。これは黒
田清隆が一八八一年意北海道開拓史官有物払
い下げ事件を起こしたことをきっかけとして
国会開設の要求がいっそう高まった。黒田清
隆はこのような事件になったにもかかわらず
二代目総理大臣になっている。これはあきら
かに清隆に権力があった証。権力があるだけ
で犯罪者を総理大臣にしてはいけない。
 歴史は暗記科目ではなく考える科目であり、
地理は理解する科目であると思う。この本は
こんなことも教えてくれた。